時任謙作(池部)には出生の秘密があった。謙作は、父(中村)のドイツ滞在中、母(文野)と祖父との間に生まれた子供だった。幼馴染の愛子との縁談がご破算になったのも、この事が原因であった。 そんな彼は、放蕩を重ねる荒れた生活を送るようになった。謙作は、祖父の死以後、その妾であったお栄(淡島)と2人で暮していた。やがて、お栄を女として意識するようになっていた。 年齢も上で、実際には父であった祖父と交渉のあったお栄に、そんな気持を抱くようになった自分を持て余した謙作は、旅行に出ることを思い立った。 そこで彼は、尾道へ行くことにした。そして、謙作はお栄との結婚の決心を兄の信行(千秋)に書き送った。その時に、始めて出生の秘密を知らされたのである。 謙作の父はこの結婚話に激怒して反対し、お栄も謙作の申し出を固辞した。それを知って、彼は再び東京を去り京都へ向かった。 そして、宿の近くに療養に来ている老人に附添う娘(山本)を見初めた。友人の高井(北村)や石本(仲谷)らの助力で、直子と呼ぶその娘に結婚を申込み縁談は整った。 結婚した謙作夫婦は、南禅寺北の坊の草葺屋根の新居に住んだ。お栄は、従姉のお才(杉村)の勧めで中国へ渡ることになった。 だが、盗難に遭った上に病気になってしまった。謙作は金の工面をして、困窮しているお栄に送ってやった。 やがて、謙作と直子の間に男の子が生れたが、生後間もなく丹毒で死んでしまった。そんな折、またお栄から窮情を訴える便りがあり、謙作は朝鮮まで行きお栄を連れて帰った。 帰宅してみると、なぜか妻の直子との間に違和感が漂うのが感じられた。謙作の留守中に、彼女の従兄の要(仲代)が泊っていったと言う。 その要と直子の間に間違いが起ったのだ。謙作は散々に悩んだが、直子を許す決心をした。そして、転機を求め、1人で鳥取へ旅に出た。 彼は、伯耆大山山麓の蓮浄院と呼ぶ寺に寄宿した。静かな日々の中で過ごし、やがて日増しに心が落着いていくのを感じるのだった。 そんな謙作がある日のこと、登山の一行に加わり、コレラに罹って倒れた。直子が慌てて駈けつけて来た。病床に横たわる謙作の眼は優しく、愛情に満ちた穏やかな表情をしていた。 直子も、高熱に喘ぐ彼の横顔を見詰めながら、「助かるにしろ、助からないにしろ、わたしはこの人について行く」と、どこまでも謙作に着いて行こうと決心したのだった。(1959(昭34)年 東宝 1959(昭和34年キネマ旬報ベストテン12位)
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