志村敏夫,1914年(大正3年)10月13日、静岡県志太郡島田町(現在の島田市)に生まれる[1]。1936年(昭和11年)、22歳になるころ、高田稔の高田プロダクションと新興キネマが共同製作した牛原虚彦監督の『五々の春』に脚本参加する。1940年(昭和15年)には、東宝映画に所属し、斎藤寅次郎監督作の脚本を書いた。第二次世界大戦後、1947年(昭和22年)、新東宝設立に参加、萩原遼と共同で、『大江戸の鬼』の監督として名を連ねる。1948年(昭和23年)、同社と竹井プロダクションの共同製作作品『群狼』で監督としてデビューする。1954年(昭和29年)、宝塚映画に移籍、6本を監督し、翌1955年には新東宝に復帰する。1958年(昭和33年)には、女優の前田通子とともに新東宝を去った。1959年(昭和34年)、テレビ映画に進出、1960年(昭和35年)には特撮作品『怪獣マリンコング』を手がけている。1963年(昭和38年)、前田通子とともに台湾に招かれ、『秋風秋雨割心腸』を監督する。50歳を迎える1964年(昭和39年)に手がけた、テレビ映画『江戸忍法帖』は、当時、山城新伍の不祥事により、東京では1967年(昭和42年)まで放映されなかった。1980年7月7日死去[2]。