荒户源次郎,船乗りだった父方の祖父は隠れキリシタンで、ポルトガル系ともいわれる外国人の血を引いていた[1]。生後間もなく福岡市に転居し、九州大学入学時まで福岡に住む。高校時代はラグビー部に所属し、熊本のヤクザの家に寝泊りし、パチンコ屋で用心棒まがいの仕事をしていたこともある[1]。学生運動に身を投じ、九州大学建築科を数ヶ月で中退して上京[1]。唐十郎主宰の劇団「状況劇場」と出合い、演劇の道に進む。このころ、寺山修司の天井桟敷との乱闘で警察に逮捕されたことがある[1]。状況劇場では若頭的な存在だったが、公演中、劇団仲間3人に暴力をふるったため10ヶ月でクビになった(このとき、荒戸の後釜として入ったのが根津甚八だった)[1]。1972年に劇団「天象儀館」を、上杉清文らと旗揚げする。他の団員に、杉田一夫、秋山道男、櫻木徹郎、熊倉正雄がいた。また、一時は平岡正明も加わっていた。1973年には、天象儀館のメンバーの出演による、大和屋竺監督?田中陽造脚本による映画、『朝日のようにさわやかに』を製作し、自ら主演。映画プロデュースの道に入る。「天象儀館」で続けて数作、映画を撮るもくろみであったが、挫折。その計画の中には、鈴木清順監督作も含まれていた。1980年には、映画界の伝説的存在となっていた鈴木清順の監督で『ツィゴイネルワイゼン』を、「映画公開のために専用の小屋を建てる」という、製作?興行を一体で行う方式(=シネマ?プラセット)を成功させ話題になる。1989年には、『どついたるねん』で監督阪本順治と俳優赤井英和のデビューを手掛け、再び映画界に旋風を起こす。その後も、ふたたび鈴木清順監督の『陽炎座』(1981)『夢二』(1991)、阪本監督の『鉄拳』(1990)『王手』(1991)『トカレフ』(1994)、また坂東玉三郎監督『外科室』(1992)を製作。また1995年には、かつての「天象儀館」団員の秋山道男がプロデューサーをつとめる、内田春菊原作の『ファザーファッカー』の映画化の監督を依頼され、秋山を主人公を犯す義父役に配役して制作する。2003年には車谷長吉原作の『赤目四十八瀧心中未遂』を監督し、主演大西滝次郎、寺島しのぶの映画デビューを手掛け、毎日映画コンクール日本映画大賞、ブルーリボン賞作品賞をはじめ、映画賞を多数受賞。キネマ旬報ベストテンでは第2位に選出される。2005年には、上野公園の東京国立博物館の敷地内に映画館「一角座」が、大森立嗣監督の『ゲルマニウムの夜』(花村萬月の芥川賞受賞作の映画化)の上映を目的として、国内最高峰の映像?音響設定を備えて建てられ、その製作総指揮を執る。同館は、以降も荒戸のプロデュース作品を中心に、独自の上映活動やトークショウなどの企画を続けており、2007年には「幻の映画」となっていた、『朝日のようにさわやかに』を34年ぶりに公開した。また、2007年には、小説家の夏石鈴子と結婚した。